家族とは香川で過ごしたい!個人事業主Uターン組の星・篠原章人さん

中讃地域まんのう町。こんぴらさんの愛称で親しまれる金刀比羅宮を眺めるエリアに篠原さんの自宅兼オフィスがありました。進学を機に香川を出て20余年後、地元に戻って起業された経緯をお伺いました。

目次

限られた子供時代、家族とどこで過ごすのか?

- 香川を出て戻ってこられた経緯を教えていただけますか?

篠原さん:「高専で学んだ後に、進学と就職で近畿・北陸地方を転々としました。

京都で勤めていた半導体製造装置のメーカーでは、装置の制御や顧客の工場側との通信に関するシステムの開発をしていました。

 顧客のほとんどは海外―アメリカ、台湾、韓国、イスラエルなど―で、仕事自体はとても刺激的で面白く、プライベートでも結婚したり子供ができたりと充実していましたが、どこか「自分の居場所じゃない感じ」がありました。

 子供が小学校に上がるときになって「これが最後のチャンスかな」と思ったんです。持論なのですが、10代のころに過ごした場所や受けた刺激が一生続くのではないかと。20代になってから引っ越しても両親にはついてこない。

 家族で一緒に暮らせる限られた時間を香川で過ごしたくて長女が小学校にあがるタイミングで戻ることにしました。」

- 戻ってきてからのお仕事はどうされたのですか?

篠原さん:「戻ってから2年ぐらいはある会社のサラリーマンとしてファームウエアやPCのアプリケーションを開発していました。でも仕事は辛かったです。考え方や価値観が違っていたのが大きかったですね。

 一人で複数のプロジェクトをこなすという個人事業主のような働き方でした。成果を厳しく求められて一人で頑張りましたが、会社の期待に応えることはできませんでした。」

身体が動かなくなった

篠原さん:「2018年のGW明け、会社に行こうとしたら身体が動かなくなったんです。『心が壊れるってこういうことか』と思いました。

 妻が病院に連れていってくれ、お医者さんからは『うつ病です。休職しましょう』と言われました。それを聞いて『僕もここまでか』と思いました。

 小さい頃は『頑張ればできないことはない』と思っていました。でも、このことがきっかけ『できないものはできないんだ』と気づきました。お医者さんからは休職を勧められたのですが、会社に戻る気力が消えてしまいフェードアウトするように辞めました。」

- 辞めてどう過ごされていたんでしょうか?

篠原さん:「2年間は傷病手当などもあったのですが、それしか収入がないこと、さらに「〇〇会社の篠原さん」とか「〇〇ちゃんのお父さんの篠原さん」という肩書がぱーっとなくなったことで、自分が何者かわからなくなりました。

 それが一番辛かったですし、どうしたらいいかよく分からなかったですね。身体が動かないので寝てゴロゴロするばかり。車も運転できない…今でも当時のことが夢に出てきます。」

- 辛い時期からどうやって回復されたのでしょうか?

篠原さん:「辞めた後、しばらくは何もする気力がなくブラブラしていました。回復していったきっかけは、高松にあるルヌガンガという本屋さんの読書会に参加したことです。そこから世界が変わっていったように思います。

 読書会ではお医者さんや学生さんのようにITと全く関係ない方々ともたくさん出会いました。そこでもやっぱり『篠原さんは何をしている方ですか?』と聞かれるんですね。

 そこで『無職です』というのがなかなか口から出てこなかった。でも、それが言えるようになった時、心が開放された気がしました。

 ルヌガンガ以外でも、なタ書(※予約制の本屋)の藤井さんや写真家の宮脇さんなど「色々な人」と「多様な生き方」に出会えて、自分の視野の狭さに気づけたのも回復のきっかけの一つだったと思います。

 そんな時、2019年の瀬戸内国際芸術祭のスタッフのアルバイトを紹介され応募しました。場所は豊島でした。ここでは各国の外国人などさらに様々な人々と出会いました。自分が今までいた業界とは全く関係のない世界でひたすら働きました。ある時にはクレジットカードしか持っていない韓国の方の船代を立て替えて高松港まで一緒に戻ったりもしました。様々な人間模様に出会ううちに、生きるために必要な心のエネルギーが復活してきたんです。」

大切にしていること

 一時期は働くことや生きることへの気力を失いかけていた篠原さんが回復したのは、様々な人との関わりがきっかけでした。経験を踏まえて今のお気持ちを伺います。

- 今はどんなことを大切に考えていらっしゃいますか?

篠原さん:「僕は自分の想いを形で表現するのが好きなんだと思います。『私を見て!』ではなく『自分がいいと思って創り出したものがみんなの役に立っている』という実感がすごく好きなんです。

 だからサラリーマン時代は「自由に創り出せないストレス」がありましたね。会社ともよくぶつかりました。周りからは『もっとうまく生きればいいのに』とも言われてました。でも、それでは自分じゃない気がしていたんです。

 もうひとつ、私はソフトウエアとハードウエアと人間が無理なく融合された状況がとても好きなんです。「つじつま」が合っていて「無駄のない感じ」とでも言いましょうか。一見意味がないように見える彫刻に意図や物語が見えた瞬間に感じる、洗練された美しさです。めちゃくちゃ快感なんです(笑)」

- フリーランスとして働く上で大切にされていることはありますか?

篠原さん:「仕事をする上で大事にしているのは『人が動いたら対価を払うべき』ということです。詳しくは話しませんが、一時期知り合いが立ち上げた会社を手伝っていたことがありました。

 リモートワークで手伝っていたのですが、実際に動いて成果を上げていたにも関わらず私だけでなく他の人にも報酬が支払われないことなどがしばしばありました。それがきっかけとなり、成果と対価の関係性をはっきりさせるためフリーランスになりました。

 人は自分を必要とし認めてくれている人のために働くべきだと思っています。

愛車とともに。Yotubeで動画も配信中です。

(瀬戸内ワークス https://www.youtube.com/c/SetouchiWorks

「香川で働く」ということ

 戻って来られてから様々な経験を積まれた篠原さんですが、香川で働くことについてはどう感じられているのでしょうか。

- 香川で働くことについてなにか実感されていることはありますか?

篠原さん:「ワークライフバランスといえばいいでしょうか。これは知り合いから聞いた解釈なんですが、仕事でインプットしプライベートでアウトプットする、そしてプライベートでインプットして仕事でアウトプットするのがワークライフバランスだと。」

- 「ワークライフサイクル」と言えるでしょうか?

篠原さん:「そうですね。自然豊かな環境で家族や友人と趣味に興じたり、書店や美術館といった文化的なものに触れたりして閃いたものを仕事に活用する。仕事で得た気づきでプライベートを充実させる。それを繰り返していくと、より良い人生になる気がしています。

香川は都会と自然のバランスがちょうどよく、多様性があると感じています。また、少子高齢化や過疎化などの問題の影響が都会と比較して早く訪れるため、危機感を持って行動している人もいます。インプットもアウトプットもしやすい環境ではないでしょうか。

振り返れば、外に出たから香川いいところに気づいたのだと思います。僕はこの場所が好きですが、住みたい場所は人それぞれでいいと思います。住みたい場所に住んで生きたい人生が送れる選択肢がもっと増えればいいですし、僕は香川に住みたい人の力になりたいと考えています。」

お話をされた方

篠原章人(しのはらあきひと)さん

innovation works 代表

京都の半導体メーカに勤務後、家族で過ごす時間を大切にするために香川へUターン。

DXなどの業務改善が得意分野

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